音の正体を求めて
「蜘蛛が蜘蛛の巣をはるようにして、自分はものを描きつづけていきたい」、松原先生の言葉の真意をつかむことは、知識によって体得できず、言葉では語ることができないことに 忸怩たる思いが湧いてくる。しかし、この度松原先生のアトリエに訪問させていただき、一 人の人間として、そして作家、松原賢として見ている景色の一部から感じたものがあった。
松原賢の音
松原先生の作品には、音がある。この「音がある」という現象は、非常な不思議な体験だ。
音は本来なら「聞こえる」もののはずだ。確かに、絵画の表情から音が聞こえてくる。しかし、それだけでは語れない情景が松原先生の作品から享受できる。
不在の音の存在が立ち現われ、魂の造形として共鳴するような感覚に陥る。海や山々に行ったときや、寺社仏閣で御 神気に触れた時の感覚に近いものを感じる。この魂の響きの正体の一端を、那須塩原の充ち充ちた環境から感じることができた。
那須の高い日差しを、揺れる木々が淡く照らしていく。自然光の照らすアトリエで松原先生の作品の制作に取り組む姿を見た。その姿には迷いがないように見えた。まるで、そこに 立ち現れているかのように、身体が流れに従うように、白い和紙から情景が浮かび上がってくる。それは、木立の音の流れに共鳴するかのようであった。この音は、木立の音だが、その音ではない。音という存在の本質が、画面の中で息を吹き返す。この宇宙に存在すること の廻りに、身体をあずけていることで創出される自然を写し取っているように感じた。
音の正体を求めて
午後、「是非、連れていきたいところがあるから」と松原先生のはからいで、那須塩原の雄飛の滝へと案内された。松原先生が住むアトリエよりも、さらに山の奥深いところであった。
九月の重陽が過ぎたあたりともあって、木々は秋の準備を始めているところであった。
ここは、音と香と観が同居していた。都会では、分断されていて感じることのできない全体が景色となって肌に触れる。その景色を体感しながら川沿いの山道に入り、コンクリートのような整備がされていない道を歩いた。大地が足元から呼応して、振動が身体全体を貫く。人の支配が及ばないから得られる、生の廻りの実感。松原先生の作品から感じる大地の響き。薄暗い、木々が遮る山肌に、力強く生える大シダの葉。見下ろすと川が流れ、那須の豊かな自然を潤す。聴覚に感じる音は、川の流れや滝の落水の音。その連環のなかに自己が介在することで感じる「音の存在」が、確かに、私の血潮にも流れ霊感に響き渡った。
三十分程歩いただろうか。この森を長い間見守ってきた桂の大木が目の前に立ち現れた。魂が震える。ここには、本当に音が存在したように感じた。様々な、目に見えない音がこだましていき、“かたち”となって心象の風景に立ち現れる。
松原先生の作品の特徴として現れる、丸い音の粒。それは、滝から聞こえてくる聴覚を刺激する音だけでは語れないものなのではないだろうか。恐らくは、私が感じた音でもそれを語ることや表現することができない。松原先生の作品には、松原先生の音が画面の中で響いていくということを、那須の豊かな自然に身を委ねることで感じることができたように思えた。
松原賢の描き出す世界
「蜘蛛が蜘蛛の巣をはるようにして、自分はものを描きつづけていきたい」 この言葉には、松原先生の知恵や経験が大きく依拠するところがある。それは、松原賢先生 にしか分かりえないことだ。しかし、松原先生の描く姿や作品、環境に身を少しでも置くこ とで、松原賢先生が描く作品に感じられる、この宇宙の中に私たちが身を置く世界を、さら に享受することに繋がった。
私たちが目にする世界は、私たちの視界の範囲でしか存在しない。しかし、私たちが感じ 想像する世界はどうだろうか。人間という生き物に宿る魂の震え。それは、世界の廻りに呼 応するように、私たちの心象の地平に広がっていく。音だけではなく、松原先生の描く龍も その一つだ。音は、目に見えないのだろうか。龍は空想の生き物なのだろうか。松原先生の 描く龍も、確かに存在している。松原先生の描く作品一つ一つに、視覚を超えた存在が生ま れるのは、感受したイメージの地平を描き出す技術と、経験、そしてなによりもこの宇宙の 廻りの中に身を委ね、繋がりのなかでイメージを醸成させていく卓越した感受性が作品に 魂の響きを吹き込むのだろう。
一穂堂 岡村 陽平