意図を超えた芸術性を求めて
1944 年生まれ。小原國芳、牛島憲之、島岡達三の三人を心の師と仰ぐ。玉川大学に進学後、木工の道に進む。技術に目的意識を持つ、工芸の世界に対して疑問が生まれる。自身の経験や、三人の心の師から影響を受けて醸成された自己の芸術性を根底に、今までにない漆の手法を用いて、松崎融氏のイメージにある芸術性を目指し制作を続けている。
意図を超えた芸術性を求めて
松﨑融先生の作品は、何層にも荒く塗られた独自の漆の風合いがある。まるで抽象画をみているようなタッチだ。普段目にする、表面が滑らかな漆の作品の概念が覆されるような作品である。
松崎先生の漆作品も、他の漆芸同様に“用の美”であり、普段使いをすることを一つの目的としている。しかし、それ以上に、松崎先生の芸術性というものが作品から立ち現れているようである。 松﨑先生は、人工が自然を超えることを目標としている。人工と自然の違いは、松崎先生によれば、人工的なものとは、制作する際に生まれる意図や技術、一方で自然は、感受性であると語る。そもそも、技術を目的意識とする工芸の価値観に対して疑問を持ち、自らの芸術性を体現しようとする松崎先生が考える「人工が自然を超える」というのはアンチテーゼのように思われるかもしれない。しかし、この哲学は矛盾をしていないのである。 技術は、多くの意図が含まれてくる。何かを作り上げるときに、そのものを作り上げようという設計図が頭の中に生まれ、未来の完成図(以下、「目的物」) である単体の対象物に対して技術を用いる。工芸の世界の多くは、この「目的物」が明確にあり、用いる技術の選択肢から「目的物」を制作する。即ち、技術ありきの「目的物」なのである。そのため、技術を基にした意図の強い制作では、「目的物」はイメージの壁を超えることを必要としないのである。 一方で、芸術性に対して目的がある制作は、一種の美学と呼べる理想的な芸術性が遠景の目的に存在する。制作するということは、無形の美学を表現するために生まれた結果なのである。そのため、クオリティこそ重視はするが、「目的物」自体に対して技術や完成は後付けであり、主体は「目的物」の先にある表現する理由や芸術性なのである。自己の追い求める美学を叶えるために、ある意味“イデア”から制作者を通して有形になる理想に必要な媒体として技術が用いられる。 技術を目的におく技術主体の作品は、自己の内面の感性すらも語ろうとし、意図が表出するが、芸術性を目的に技術を用いると、感性を自然な形で表出する結果となっていく。
工芸家、芸術家どちらにせよ技術と感性は大切なものであるが、工芸家は技術を、芸術家は感性を主にして作品を作り上げる。松崎融先生は、その狭間にいるようである。工芸家であるために赦される技術への迎合、しかし、芸術的な哲学を持つものであり、表現者でもあるために、制作の目的は内面に秘める芸術性の完成。そのため、木工や漆の技術を用いながらも、技術によって生じる自らの意図が消えるまで、漆を塗り重ねていく。すると、技術を使うことの意図が排除されていき、形が見えてくる。その時に、技術は自らの内奥に存在する感受性と融合し作品となる。そして、結果として生まれた作品を見返し、幾度となく作り続けることで、松崎先生の無形の芸術性の作品に近づいているのである。松崎融先生の目指すものは、一つの作品の完成ではなく、心象にある芸術性を求めることといえるのではないだろうか。